ブログが続かないことと中学時代に書いた小説の話
自分で始めたはいいものの続かない。
三日坊主もいいところである。
ブログが続かない。
書きたいことが全くないわけではない。
むしろ言いたいけどTwitterでつぶやくにしてはややこしいことや好き嫌いわれそうなことがけっこう出てくる。
しかし、私は卑屈な性格のくせに変なところでかっこつけなので、下書きしては消す、みたいな作業を繰り返している。
特に、かっこつけた文章やら斜に構えた文章を書いては消すという作業が多い。
そういえば、中学生の頃、「選択国語」という授業で小説を書いた。
ゆとり教育を謳歌した世代の方はご存知かもしれないが、昔は週に1コマから2コマ「選択科目」という授業があった。(あれが制度的にどういう位置づけだったのかはちょっとわからない。もしかしたら私の通っていた中学校独自のものだったのかもしれない。)
選択科目Aでは、国語・数学・英語・理科・社会などから、選択科目Bでは体育・音楽・美術などからそれぞれ1つ選んで科目ごとに活動をするというものだった。
それの選択Aで私は国語を選んでいた。細かい理由は忘れたが、科目内容がどう、というより、一緒にやる友達(もっと正確に言えばヤンキーがいないか)で決めていた。
始めは漢字検定に向けた勉強やら百人一首やらをやっていたが、途中でなぜか「みんなで小説や詩を書いて文集を作ろう」ということになったのだ。
中学二年生が作る小説集、今思えばなかなか面白そうだが、普通に考えてとんでもない黒歴史製造機だし、当時の私もそれをなんとなく察していた。
周りの人がそれぞれ黙々と執筆を進めたり、一方で「かけるわけねーよ」とさじを投げて遊び始めるなかで、私はどちらに傾くこともできなかった。
結局、「中学生が自宅に帰り高校生の姉と「ストロベリージャムとブルーベリージャムのどちらが好きか」という話をする」という山も落ちも意味もない話を書いた。
当時の私は、5ページしかないファンタジー小説や自作のイラストをたくさんつけた学園モノを書く友人たちを、心の中で馬鹿にして、一方でうらやましくも思っていた。
今思えば私の書いたものはダサい。ダサくてたまらない。超超超超超ダサい。
友人たちの方がよっぽどかっこいい。尻切れトンボでもなんでもいい。私だっせ~~~~!!
何か物を書いて残すと、ほぼ確実に、後から思いだして恥ずかしくなったり後悔したりすると思う。(書いた内容も、そして何かを書いて残すという行為自体も)
だから目的のないブログって続かないよね。
お菓子を作る人は大きく3つに分けられる
と、3年くらい前から思っている。
今日はその独断と偏見にあふれた3分類を書いてみることにした。
3つの間の差はグラデーションであって、「①よりの②」「②と③の間」とかもあり得ると思う。異論反論いろいろあると思うが、これはあくまで私が勝手になんとなーく思っていたことに過ぎないので、そのくらいの気分で読んでいただければありがたい。また特定のタイプの人(たち)を馬鹿にするような気は全くない。
①とにかくおいしいお菓子をつくりたい人
カロリーや予算を気にせずに、食べたいもの、作りたいもの、贈りたいものを作る。
「はじめてのお菓子作り」とか、「お菓子作りの基本」みたいな本から入って、今は「あと一歩のコツ!」みたいな本を持っていて、なんかマニアックなお菓子(ビスコッティとかギモーヴとか中国菓子とか)のつくり方の本を図書館でめくりつつ、なんだかんだフィナンシェをもっと極めたいな、と思っている。
おいしさのためならカロリーなんて恐れないため、バターもグラニュー糖もガンガン使う。
むしろ「普段食べてる安いお菓子なんてマーガリンとショートニングばっかりなんだから、自分で作るお菓子くらいはおいしいものを食べたいじゃないか」と、わざわざ発酵バターを買ったりする。
材料が中途半端に余ることも怖くない(そのくらいの犠牲を惜しんでどうするのだ!という考え)ので、たまごの白身が余っても構わないし、何なら「黄身何グラム」とか指定されても構わない、むしろ燃える。
お菓子をプレゼントしたときのウケもよく、「お菓子作りが趣味」という人の正統派、ど真ん中って感じ。
ただし作る頻度は個人差が大きく、週に数回作るセミプロがいる一方、数カ月に1度、休日を潰して1日菓子を作っている人もいる。
後者の場合、特定の菓子を作るために買ったちょっとマイナーな製菓材料の賞味期限を切らせることが多い。
②そこそこおいしくて体にいいヘルシーなお菓子を作りたい人
多少味が劣ったり、見た目が悪くなってしまっても、せっかく手作りするからこそ、体にいい材料を使ってお菓子が作りたい、市販されているものよりカロリーも抑えたいと思っている。
バター、白砂糖、一般的な小麦粉、生クリームなどの使用を避ける。
油脂は質のいいグレープシードオイルやココナッツオイル、小麦粉は全粒粉、糖分はきび砂糖やメープルシロップなどを使いたいと考えている。
持っているお菓子作りの本は、多分表紙の背景が青とか黒系で、なんかおしゃれな感じ。
マクロビとかも好きだが、貫徹してるかというとそうでもなく、できる範囲で・・・くらいに考えている。
①と比べ、作ったはいいものの思ったのと味が違う、ということや失敗してしまうことも多いが、めげずに頑張っている。
プレゼントにつくると、同じような情報に敏感な一部の層からはウケがいいが、一般受けはイマイチ。本人たちもそれを自覚してるため、プレゼント用にはスタンダードなものを作ったりする。
せっかくヘルシーに作ったのに出来上がったものを1度に食べてしまって結局ヘルシーではなくなってしまうこともある。
③手軽に安くおいしいお菓子(おやつ)を作りたい人
お菓子作りに趣味と実益を求める。お菓子作りは好きだがそればかりに時間を割くわけにもいかず、家計も気になる主婦/主夫のイメージ。
家族のために作ることが多く、サンキュ や COOKPAD を愛用する。
材料は安く済ませたいので、バターよりも製菓用マーガリンやサラダオイルで作れるレシピの方がありがたい。
製菓にしか使わない材料が余ってしまっても困るので、板チョコや生クリームを使うなら1パック使い切れるようになってるといいのにな、と思っている。
たまごももちろん全卵で使いたい。
ホットケーキミックスを使うかは結構分かれる。(気軽さ優先なら使うが、安さ優先なら使わない…)
得意なおかしは、シフォンケーキ、バナナケーキ、アップル・クランブル、プリン。
作る頻度は比較的高く、普段の家事の延長線上にお菓子作りがある感じ。
いかがだっただろうか。
ちなみに私は③から入って、②に移り、めんどくさくなって最近はとんと作っていない。
卒論やりたくないよ~という泣き言
私が卒論でやっていることを例えるならば、すでに出来上がってうまく動いている機械があって、取扱説明書がちゃんとついてるし、メーカー側も「こういうところがいいところです」とか「こういう改善点があります」とかいろいろ教えてくれてるのに、わざわざそれとは違うよくわかんない本を持ってきて、そこに書いてあるやり方で無理やり分解して勝手に部品を分類した後で、メーカーの説明を後から持ってきてもう一回何とか作り直して、わーもとに戻りましたねー!って言うようなもんだ。
メーカーの説明をもとに分解した方が絶対きれいに分解できるし、私がやる分解~分類の作業は、メーカーからしたらおそらく「そんなバラし方したら機械が台無し」「そんな分け方しても意味ないのに」と思うところばかりだと思う。
メーカーの説明をよーく読んで、機械の構造を丁寧に見直すことで、その機械の良さや悪さをわかりやすく説明することができるだろし、「こうした方らよくなります」とか「こうやって作った方が効率的です」みたいな発見をすることもできるかもしれない。
しかし私が勉強してきた学問は、どうやらそういうタイプの学問ではないようだ。(いまだに自分が大学で専攻している学問が「何なのか」よくわかっていないが、少なくとも私の卒論の受理/不受理を決める教員はそういうタイプの論文を求めていないので、ここでは「そういうタイプの学問ではない」とする。)
私がやっていることは、おそらくはたから見れば、すでにある機械を壊してまた同じように直すだけの徒労だろう。そして、メーカーからみれば愛情込めて作り上げた機械を勝手に弄り回されて不快なのではないかと不安になる。
いや、本来は、メーカーと違う分解や分類をすることによって「メーカーの皆さんは気づかなかったかもしれませんが、実はこんな機能(あるいは欠点)がありました!」みたいなことを見つけるのが、期待されていることなのだろう。
しかし、ふいたらとぶような空っぽ頭の私にはそんなことできるはずもなく、せめて締め切りまでに何とか機械を壊して直した記録を提出するため、今日も賽の河原で石を積む。
最近dマガジンを使い始めたが
私は大学で社会学を勉強する科にいる。
それなりに勉強していてよかったな~と思うことは、週刊誌や新聞やテレビで出てくるいろんな(社会/世論/意識…)調査と呼ばれるものについて、(その真偽とか妥当性について判断することはできなくても、とりあえず)どの程度適当な気持ちでみるべきかなんとなくわかることだな、と最近dマガジンで週刊誌をめくるようになって思った。
母についての妄想
私が中学生のころ、母はブログを読むのにハマっていた。
芸能人のブログなどではなくて、いわゆる「主婦ブログ」というか、「今日こんなお料理作りました」とか、「夫と子供とどこどこに行きました」とか、そんな感じの。
そのうちのいくつかは私も好きで、気が向いたときは私もチェックしていた。
(当時はパソコンが家族4人共有で、母は自分のアカウントにパスワードをかけていなかったので、いつでも母の「お気に入り」からそれらのブログを見られた。)
中でも好きだったのは、ハイカラなおばさんがやっている 小さな幸せ みたいなタイトルのブログだった。
そんなタイトルのくせに、幸せが全然に小さくないよね、と母とよく話した。
生活水準で言えば、上の下以上。しょっちゅう旦那さんと旅行に行き、クリスマスはヨーロッパで過ごし、お友達とバラ園に言ったり、趣味で香水瓶を集めたり、幼いお孫ちゃんにこじゃれた焼き菓子を作ったり……「これ、めっちゃ幸せじゃん」と羨んだ。
そしてそのブログのすごいところは、記事の書き方が全然自慢っぽくなく、嫌味じゃないところだ。
育ちのいいお嬢さんのままおばあちゃんになった女性が、普段の日記をなんとなく公開するとこんな感じになるのかな、私(たち)には届かない世界の話だな、と思った。
よく行くお出かけ先から、おそらく私の実家とさほど遠くない距離に住んでいると考えられ、しばしば彼女が行ったというお庭や展覧会に行ってみたりした。そうしても、なぜか、彼女と私(たち)は生活している世界が、微妙に違うように感じた。
サイトのデザインを、歳に合わない、「ピンクハウス」みたいなものしちゃうことだって、私(たち)にはできないだろうな。
まあ、とにかく、とっても素敵なブログだったのだ。
先日、久々にそのブログが見たくなって、検索をかけた。
そうしたら、出ること出ること、 小さな幸せ 系ブログの山。(しかも当たり前だがどれも「小さ」くない!)
そんな中、何とかして例のブログを見つけた。
しかしそれは数年前から更新がストップしていた。
更新が滞る前の記事を見ると、旦那さんの体の調子がすぐれず、通院に付き添っているとある。
そのまま旦那さん体調がよくならず、介護などで忙しくなったのだろうか。ブログの更新をする時間や元気がなくなったのだろうか。以前のように、デートやおでかけをしていないのだろうか。もしかして、彼女自身も体調を崩されたのかもしれない。いや、それこそ亡くなっているのかもしれない。
などと、縁起でもない勝手な想像をした。
私が実家を離れている間に、気づいたときには母の「お気に入り」から例のブログはなくなっていた。
母は、いつ頃まであのブログを追いかけていたのだろうか?
更新が滞るまでだろうか、もっと早く飽きたかもしれない、でも、更新が滞ってからも1年くらいはチェックしていたかもしれない。
そうだとしたら、母はどう思っただろうか。自分と20歳くらい離れていて、自分が同じ場所に行っても同じ料理を作っても、自分とはきっと違う世界を生きてる感じのする女性が、姿を見せなくなったことについて。
自分の生活している世界と近い現実みたいなものに戻ったと感じただろうか。
なーんてね。
ブログをはじめてみることにした。
ブログをはじめてみることにした。
理由はいろいろあるが、とりあえず1番大きなものとして、メインで使っていたSNSの居心地があんまり良くなくなったというのがある。
5年くらい前からtwitterが好きで、鍵をかけて好き勝手につぶやいていたが、フォロワーが150人超えたあたりからいろいろ面倒になった。(たいして多くねえじゃん、と思うかもしれないが、ハタチそこそこの凡人にとって、「自分の発言が一度に150人に聞かれる」なんてそうそうないことだ。不特定多数に晒され炎上するよりはましかもしれないが、余計なことで友人知人に引かれたり嫌われたりするのも避けたい。)
最近ではごはんがおいしいとかと自虐ネタとかしか言えなくなり、料理と旅と動物の写真にばっかり「いいね」するようになった。(こう考えると食はすごい。ほとんど誰も傷つけない。COOKPADのつくれぽがいかにカオスな投稿にあふれていても比較的平和なのはみんなうまいもんを食いたいという共通目的に支えられているからかもしれない。違うか。)
いや、まあこれはこれでめっちゃ楽しいんだけど。
やっぱりちょっと息が詰まるので、ブログを始めることにした。
これまで、Twitterにつぶやこうと思ったが、もしかしたらこの人たちに誤解されるかもとか思ってつぶやけなかったような話をふわっとしていきたい。
Twitterの別アカウントくらいのノリでふわっと続けていきたいものだ。